皆さん、こんにちは!てつやです。
車中泊で、夜空を見上げたことがあります。富士のふもと、ふもとっぱら。降り注ぐような星の光の中に、ひとり立っていました。
翌朝、その感動を記事にしようとしてパソコンに向かいました。ところが何度書き直しても、どこかズレている。言葉にした瞬間に、あの夜が「説明」に変わってしまう。
「伝えたいのは、こういうことじゃない」
そのもどかしさが、私に大切なことを教えてくれました。言語化には限界がある。そしてその限界を知ることが、考える技術の静かな土台のひとつになっていたと、後から気づいたのです。
言葉にした途端に、何かが逃げていった

「静寂の中、降り注ぐような星の光が、まるで宝石をちりばめたように輝いていた」
何度推敲しても、肌で感じた空気の冷たさも、音のない迫力も、言葉に乗ってこない。言葉にすればするほど、あの夜は「よくある星空の描写」に近づいていく。
これは、ブログを書く人なら一度は経験することではないでしょうか。「違う、伝えたいのはこんな表現じゃないんだけど」というもどかしさ。五感で捉えた感覚は、言葉というフィルターを通すと、その瑞々しさを失う。
これは、感動的な体験だけの話ではありません。日常の言葉にも同じことが起きます。
「美味しい」という言葉ひとつとっても、素材の新鮮さからくる美味しさなのか、仲間と食べた雰囲気による美味しさなのか、書き手が伝えたい繊細なニュアンスは、読み手それぞれの定義で上書きされてしまう。
言語化は、万能ではなかった。
「余白」を埋めようとして、大切なものが消えた

言語化の限界に気づいてから、もう一つのことに気づきます。すべてを言葉で埋めようとすると、言葉にできない大切な余白まで消えてしまう、ということです。
長年連れ添った夫婦の「あうんの呼吸」。誰にも言えない秘めたる情熱。新しい趣味を始めた時の「これだ!」という直感。こういうものは、無理に説明しようとすると、かえって陳腐になってしまう。
実際、あえて詳しく説明しなかった記事に「自分も同じような経験をしました」というコメントが多く集まったことがありました。言葉で全部を埋めないことで、読者が自分の体験を重ねるスペースが生まれた。
余白は、弱さではなく、伝える力の一部だったのです。
「まだ言葉にならない」を、大切にする姿勢へ

この体験から、私の中で少しずつ変わったことがあります。
何かを考えるとき、すぐに言葉にしようとしなくなりました。「今はまだうまく言えないけれど、大切な何かがここにある」という感覚を、焦って潰さないようにする。言葉にならないまま、少し持ち続ける。
ブログを書き続ける中でも、この姿勢が記事に滲み出ることがあります。詳しく説明しなかった部分に、読者が自分の体験を重ねてくれる。余白が、共鳴の場所になる。
言葉にしようともがくプロセスの中にこそ、本当の気づきがある。言語化を急がないこと。それが、考える力を育てる上で、意外に大切な態度だと気づいたのです。
この感覚が、AI思考の地図の原点のひとつになった

後から振り返れば、この「言語化の限界を知る」という体験も、AI思考の地図が形成されていく過程の一部でした。
AIを使いこなすためには、まず自分の考えを整理する力が必要です。でもそれ以前に、「自分の中にある、まだ言葉にならないものを大切にする感覚」が土台にある気がしています。
何でも即座に言語化しようとする姿勢ではなく、言葉にならないものと向き合い続ける姿勢。その違いが、考える技術の深さに関わっているのではないかと、今は感じています。
あの満天の星空が、そのことを静かに教えてくれました。
「書くことで整理する力」と「言語化の限界を知る感覚」。この二つが重なって、少しずつ形になってきた考え方があります。その全体像はこちらのシリーズでまとめています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 それでは、また次の記事でお会いしましょう!
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